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S・スピルバーグ『リンカーン』──民主主義のカタルシス

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洋の東西を問わず、権力と映画はウマが合わない。

歴史上、権力が映画を利用しプロパガンダを作れば、ロクな作品ができた試しはないし、逆に映画が権力を中心化して描こうとするとき、作品としての輝きが損なわれてしまうという罠がある。とくに歴史上の権力者を主人公とする、いわゆる伝記映画は、生まれたときから死ぬ瞬間までを描く大歴史絵巻となると、映画そのものから魅力が分散しがちとなる。『ナポレオン』『西太后』『クレオパトラ』『敦煌』など無残なほどフィルムを無駄遣いしている作品は挙げれば数多ある。もちろん、『イワン雷帝』(1944、ソ連)という傑作も存在するが、社会主義政権下の撮影所モスフィルムで、天才監督エイゼンシュテイン自身が権力を握り、映画を作ることができた。これは類い希な権力と映画の邂逅であり、例外中の例外というべきであった。

歴史的に見れば、映画はむしろ、権力に刃向かったり、権力に虐げられ日陰に追いやられる人間を描く方が性にあっている。『グレースと公爵』(E・ロメール、断頭台で処刑されるオルレアン公とグレース・エリオットの悲劇)や『ラストエンペラー』(B・ベルトルッチ)を思い浮かべれば、かつて手にしていたであろう権力が手から零れ落ち、身を滅ぼしゆく時間にこそ映画が宿ると感じられるだろう。

ゆるぎない王位にある人間が権力を思いのまま振りかざす姿は、映画的に見ればいかにも鈍重でスリルに欠けるのだろうか……

”権力者の映画史”において、映画そのものを輝かせてみせたという例は確かに存在し、それは普く、歴史上の人物を聖人化するのではなく、むしろその人間が波及させている”伝説”を脱神話化させたものだ。例えば昭和天皇を描いたA・ソクーロフ『太陽』を見れば、極小化したプライベートな時間を描くことこそ、むしろ伝記映画を輝かせる術ではないか、と思えてくる。歴史的偉業を断片的に繋げたタペストリー式伝記映画など、ただスケールの大きさばかりを上から目線で見せつけているにすぎず、つまらない。確かに溝口健二『新平家物語』(若き日の平清盛の10年間)やJ・フォード『Young Mr. Lincoln』(1939、若き日の弁護士リンカーン)など、”歴史的偉人”のある一時期を焦点化した作品の方が、よっぽど奥行きと魅力ある人物像を描きえている。

そんな”映画史的経験則”を充分知ってのことだろう、スティーブン・スピルバーグの新作『リンカーン』は、第6代合衆国大統領をその人生最後の4ヵ月に絞り込んで描いた。10年に1本の大傑作である、と躊躇いもなく断言したい。

注目すべきは、この「最後の4ヵ月」には、有名なゲティスバーグでの「人民の人民のための人民による政治」も、奴隷解放宣言も含まれない。アメリカ映画の申し子スピルバーグはそんな人類史のメルクマールなど映画には必要ない、と切り捨てた。”Angels in America”で有名な劇作家トニー・クシュナーが書き上げた500ページに及ぶ脚本(いかに大河的伝記映画!)を、なんと70ページに削ぎ落としたという。

ここで『ジュラシック・パーク』と『マイノリティ・レポート』の巨匠が注目したのは、南北戦争の激戦ぶりを忠実に描写してみせることでも、黒人奴隷制度の非道ぶりを残酷に見せつけることでもなかった。合衆国で”民主主義”が見事に機能した瞬間を、サスペンス体験としてひりひりと描いてみせること、その一点に映画が絞り込まれている。

バイオレンスもホラーもアクションも、本気になれば世界一の技量(とハリウッドの財力!)で赤児の手を捻るように撮り上げてしまうスピルバーグ。しかし、今作ではド派手なヴィジュアル・エフェクトは抑制し、なんとも鈍重に思える政治の世界にドラマを見出したのは、驚くべき慧眼といいたい。

バラク・オバマが活躍する21世紀、人種間平等など常識と思われがちであるが、19世紀後半のアメリカ人にとりこの平等こそが非常識だった。実際、リンカーンが成立を目指した合衆国憲法修正第13条(13th Amendment)は、誰も進んで通そうとは考えていなかった。信じられないことに、当時の感覚ではわざわざ骨を折って通すまでもない凡案であったのである。人権運動の歴史に慄然と輝く、人類史上最も重要な法案と言ってもよいかもしれぬあの第13条が、かるくスルーされようとしていたのだ! そんなとき、リンカーンを中心とする共和党の政治家たちが、いかに「肉を切らせて骨を裁つ」同意形成を成し遂げたのかがスリリングに描かれている。

それはすなわち、意志を統一することの困難さを痛いほど緻密に、リアルに描く作劇であった。

1864年、南北戦争は4年目を迎え泥沼化していた。政局も混迷を極めた。和平交渉を重視する共和党の多数派、奴隷制維持を当然とする民主党、和平が先に成立するなら奴隷制はわざわざ止めることはないという地方の有力支持者、奴隷制撤廃では不十分で人類皆平等ゆえに黒人も女性も参政権を与えるべきとまでいう普遍主義者(共和党 Tadeus Steven, Tommy Lee Jones)など、賛成・反対の白黒をつける前に、おのおの政治家の優先事項が多種多様、皆が明後日の方向を向いている状況は、まるで収拾不可能であった。

アベノミクス、TPP、改憲、脱原発、沖縄基地移転、生活保護、福祉など様々な争点があり、そのどれも十全に議論することもなく、ただ徒に離合集散を繰り返す日本の政党政治の現状況にあまりにも酷似しているではないか。

民主主義とは、皆が皆、別々の優先事項があり明後日の方向を向いている人間たちを、一挙にかっさらって、同じ議題について、YES を勝ち取ることに他ならない。人間の平等という理想がどうであろうと、同時代の国会においては、様々な利害が絡む多数の案件の中の一つに過ぎないのだ。

それをスピルバーグは、秀逸なサスペンス映画に仕立て上げた。

混迷した政局で、リンカーンは究極の選択に迫られる: 泥沼化した南北戦争の和平と、奴隷制廃止法案(第13条のこと)のどちらを優先するか?  

第13条の下院での採決がいよいよ近づきつつあるとき、劣勢の南部が和平交渉の大使をワシントンに送ったという内部情報を得る。この情報が公に出れば、まずは和平を優先させ、下院での採決は中止すべしとなってしまう。さらに、南北戦争が終結すれば、わざわざ奴隷制を廃止するまでもないという議員も多数いて、彼らから賛成票を取るのが困難となり与党・共和党は分裂するかもしれなかった。しかも、共和党は過半数の議席はあるものの、改憲するには議席の2/3が必要であり、宿敵・民主党から20名の離反者が必要だった。

そのためリンカーンは強力なロビイスト集団を組織した。この会期末で議席を失う失職予定議員の、次の仕事を斡旋してやったり、地方有力者の上下関係を使って無理矢理中堅議員を懐柔したり、と手段を選ばず、票集めに奔走する。そうやって、少しずつ賛成票を増やしてきた矢先に、この南軍の和平使節派遣の密報が届いたのだ。

南北戦争は、夥しい死者を出していた。リンカーン自身も既に息子を一人失い、さらにもう一人ロバート・リンカーンも入隊すると言い張っていた。和平締結こそが時代が求める救済のようにも思えた。しかし、そうすると、せっかくの第13条は水泡に帰し、これから先「何百万人の子孫が差別され、奴隷とされる」未来を受け入れることになる。(補足:このほぼ1年前の1863年、リンカーンが行った高名な「奴隷解放宣言」は南部連合の支配する奴隷を解放するもので、合衆国全域に有効ではなかった。だからこそ憲法改正で、恒久的に奴隷制を廃止する必要があった。)かといって、和平交渉を先延ばしにしたとしても、第13条が可決する保証は何もなく、もし否決され、さらに戦渦が拡大すれば、歴史上最悪の選択をした政権となってしまう。終戦と奴隷制廃止、人道上の理想も同時代の文脈にあっては共生不可能である事実が、痛々しく我々の胸を締めつける。

はたして、リンカーンはどちらのオプションを選ぶのか、ここに映画のサスペンスが集約されてゆく。

そんなときダニエル・デイ=ルイス演じるリンカーンは、次のような言葉をつぶやく。 "If you can look into the seeds of time, And say which grain will grow and which will not, Speak then to me." (もし時の種を見分け、どの種が育ち実をつけどの種が育たぬのか、分かるのであればぜひ教えて欲しい。ーーシェイクスピア「マクベス」の引用)

政治とは数ある理想を手のひらに並べてみせ、どれが「芽吹き、実を結ぶ」のか、選び抜き大地に種蒔く行為なのだろう。

貧困・格差、福祉、未だ放射能が漏れ続ける原発事故の処置、原発避難民の賠償問題、東北復興、北朝鮮情勢、TPPなど問題山積のなか、改憲・国防軍設置を優先させる日本のプライム・ミニスターは、「時の種」への感性を明らかに欠いていると言えまいか。

映画「リンカーン」を見る行為は、自国の政治状況と照らし合わしながら、民主主義とはなんだろう、と考える同時代的な体験に他ならない。それほどの緻密さと、リアルさをもって、いつの時代も「ある、ある」と思える議員間の対立、収拾不可能な政局が目の前に展開されるからだ。

「映画」としての完成度も傑出している。

ダニエル・デイ=ルイスは、演技という語をいかにも陳腐に響かせるほど、ゆたかな唯物論的存在を輝かせているし、サウンドトラックの常連・ジョン・ウィリアムズは、近年二度目の最盛期を伺わせる充実ぶりである。『シンドラーのリスト』以降スピルバーグの画面を支えるヤヌス・カミンスキー(撮影監督)は、リンカーンの寝室など『ミュンヘン』を思わせる美しい逆光の空間や、「戦火の馬」や「宇宙戦争」などで開発した真っ黒な群衆の人影ショットなど、モノクロームの造形美は相変わらず突出しているが、実は日中の屋外のシーンや議論する連邦議会の場面など、驚くほどストレートな色彩で撮りあげ、E・ロメールの晩年のような成熟したカラーパレットで、思わずうっとりさせる。

そして何よりも、映画において何を見せないべきかを考え抜くことがサスペンスの要諦である、と心得る巨匠スピルバーグの演出。

まず、あの巧みな話術で有名な合衆国大統領が大衆の前で話す(いかにも盛り上がる)演説シーンが、一度しかない。あの「人民の人民のための人民による政治」という演説は、映画の冒頭、それを以前聴いたいかにも優秀そうな黒人兵士によって語られ、リンカーンは彼に向かってにこやかに頷くだけだ。(スピルバーグを見続けてきた者であれば、この”隠し”によって彼の”演説”はとっておきのシーンで炸裂するはずだと、予感するだろう)南北戦争の惨たらしい殺戮場面も、冒頭に出てくるのみで、あとは画面への登場は禁ぜられる。そして、リンカーンその人の暗殺シーンですら、画面上では描かれない。スピルバーグにかかれば、いかにも山場となりそうなアクションが悉く抑制されているのだ。

では、いったい何を描いているのか?

大臣の面々や同じ共和党員、妻や息子と度重なる衝突を繰り替えし、決して完璧な人間ではない凡人アブラハム・リンカーンが、混迷を極める政局のなか何一つ完璧なプランがみえぬまま苦渋の選択をし、全く意見が異なる人間たちを一人ひとり口説いてゆく姿を真摯に描いているのである。

そこにはじっくりと深慮することの美徳とでもいおうか、慎重なることの優雅さが浮き彫りとなる。

いわゆる政治は、議員のおっさんばかりが議論を続けているだけで歩みも遅く、もっとも映画には縁遠いように思われるが、実は完璧でない人間ばかりが集まり互いの違いを乗り越えて結束する力ほど感動的な瞬間もない、ということを我々は映画により発見する。

リンカーンは呟く。 "Say all we done is show the world that democracy isn't chaos, that there is a great invisible strength in a people's union?"(我々がやってきたのは、民主主義は単なるカオスじゃない。人々の結束には、目に見えない偉大な力がある、ということを示すためだろう?」

その言葉のもつ意味をスクリーン上で確かめてほしい。

民主主義が希薄化している今、日本の政治家全員が見るべきといいたい。

いや、政治家でなくとも民主主義の危機を痛感している日本人にはぜひ見ていただきたい一本である。

そこに、我々が忘れかけている”民主主義のカタルシス”があるからだ。


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